「心中」 の由来
一家心中、無理心中、最近はネット心中なんてのもありますよね。
もちろんあまりいい言葉ではありません。
様々な事情により、複数で「自殺」という選択をすることを「心中」と言います。
しかし、この漢字に私は納得がいかないのです。
なぜに、「心の中」なのでしょうか。
心の中は様々で、すべての人が弱いわけでもなければすべての人が人生の最後を「自殺」で終えるなんてことはもちろんありません。
その選択を強いられる人の心の中は、苦痛・無念で満ち溢れているはずです。
もちろん希望もそこにはあるでしょう。
「来世では一緒になろう。」とか「これで楽になれる。」など。
つまり心は様々なはずなのです。なのになぜ、死を選んだ人だけに、この漢字を与えたのでしょうか。
心中とは
そもそも心中とは本来、「相思相愛の仲にある男女」が「双方の一致した意思により」一緒に自殺することを言ったそうです。
これは情死(じょうし)ともいいます。
転じて、「二人ないし数人の親しい関係にある者たちが合意の上で一緒に自殺すること」
この定義は非常に大事な気がします。
「」で区切りましたが、まとめると「男女が一致した意思により」ということになります。
つまり、一家心中や無理心中、ネット心中は本来の心中には当たらないといことです。
心中はどこから来たか
「心中」は、他人に対して義理立てをするという意味の「心中立」(しんじゅうだて)のことを言ったのだそうです。
「心中立」と呼ばれるものにはにはいくつかあります。
「誓詞(せいし)」
日本でかつて作成されていた、人が契約を交わす際それを破らないことを神仏に誓う文書のこと。
掌の印を押捺することもあったが、「血判」といい血液により押捺したり、あるいは「血書」といって血液で書くこともあった。
「断髪(だんぱつ)」
頭髪を切り、男に贈り、他意の無いことを示す。
「入れ墨」
「いれぼくろ」、「起請彫」ともいい、多くは男の力でさせ、男の名を彫った。
「切指(せっし)」
切指とは、手の指先を切り落とすこと。木枕の上に指をのせ、介錯の女性に剃刀を指の上にあてがわせ、介錯の女性に片手で鉄瓶、銚子を上から力任せに打ち落とさせる。
このとき指は拍子で遠くに飛び、十中八九は正気を失う。
「放爪(ほうそう)」
爪を抜くこと。
その秘訣は爪の周りを切回し、酢に浸して抜けば、痛くはないといい、男に頼まれないのに女のまごころからおこなったという。
「貫肉」
腕であれ腿であれ、刀の刃にかけて肉を貫くこと。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
どれもその筋の方が好みそうな読むだけで痛い話ですね。
痛みを堪えてまとめるなら、つまり「自分の心を表す」ということなのでしょうか。
心という目に見えないものを形にすると考えると分かりやすい気がします。
この心中立が江戸時代になると、男女の永久の相愛を意味するようになったそうです。
やがて自らの命をも捧げる事が義理立ての最高の証と考えられるようになります。
そして私の疑問、この漢字はありなのか?これもやはり過去に議論の的となりました。
「心中」つなげて書いたなら「忠」となります。
忠(ちゅう)とは、儒教における重要な徳目の一つであります。
正直で裏表のないことを表し、君臣間において重要とされる徳目でもあります。
我々が用いる場合でもなるべく汚されたくない漢字の一つではないでしょうか。
そんな経緯もあり江戸幕府は、「相対死」(あいたいじに)と呼ぶようにしたそうです。
もちろんそれを美徳として続くものが出ないよう、厳しい罰則も設けました。
しかし、そこは「死」を選ぶほどの人達のこと。
それでなくなることはなかったのでしようね。
それは今の世の中を見ても一目瞭然です。
しかし我々は、この言葉の歴史から学ばねばなりません。
決して「死」という逃げ場以外、共通の心を持たない複数の人々の死を「心中」と呼んではいけないのです。
「死を持って表現するほどの心」しか決して「心中」と呼んではいけない。
練炭などで簡単に?一人では寂しいから集団で?
いい機会です。私がそんな方々に漢字を贈りましょう。
「新自由」
死ぬのも自由なあなた方へ。
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